わたなべクリニク院長雑記: 2013年2月アーカイブ

2013年2月アーカイブ

私は、若い先生を指導する立場にいたためいろいろな資格を修得しているが、専門医だから本当に腕が良いとか名医であるというわけではないと自覚している。専門医でなくとも良い先生はたくさんいることは事実である。さて、私がもっている資格の中でも"がん治療認定医"と"がん治療暫定指導医"がある。今回は、癌に対する基本的な考え方を簡単に述べてみたい。

 マスコミやテレビでは、名医は特別な診断をして特別な治療をしているかのようにストーリーをつくるが、実際にはいろいろなエビデンス(統計的に裏打ちされた医学的証拠)に基づいた標準治療をすることが最優先だと考えている。このスタンダードな治療をすることが、まともな治療だと認識している。ただし、現在においては解明出来ていないグレーな部分や意見が分かれる部分に関してはガイドラインにもそのように示されており、医師や治療機関によって違う治療法になることがある。

 一般的に癌に対する治療方針は、1)癌の悪性度と2)癌の進行度によって決定される。"癌の悪性度"の表し方は(高分化型→中分化型→低分化型)とか(G1G2G3)等が癌の種類によって決まっている。ちなみに→の方向に悪性度が高くなり性格の悪い癌である。一方、"癌の進行度"のことを"病期"とか"ステージ"など言うことが多いが、TNM分類というものが広く使われている。Tは腫瘍の大きさや根の深さ(浸潤度)、Nはリンパ節転移の有無、Mは遠隔転移(例えば大腸癌の肝臓転移など他臓器への転移)を表す。TNM分類により病期I→病期IV等に分類することになる。

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 具体的手順として、我々は、癌を疑う腫瘍をみつけた場合、まずは生検(組織を微量に採取すること)を行い"癌の悪性度"を診断する。そして病理組織学的に癌の確定診断を得られたら、CTMRIなど画像診断で"癌の進行度"(病期)を調べる。これらの結果よりガイドラインを中心にコンセンサスの得られた治療法が決めていく。癌の悪性度が高いほど、病期が進行しているほど大きな手術になり、他臓器転移があれば多くの場合は抗がん剤治療を中心として集学的治療(抗がん剤+放射線治療、もしくは+外科的治療など)になることが多い。

 癌の診断や治療方針は、ある意味では画一的に患者さんの気持ちの整理の早さを越えて行われていく。所謂、医師が集まり症例を検討するカンファレンスで問題となるのは、治療方針がグレーの部分(コンセンサスが得られていない部分)や重篤な合併症を持った患者さんなどである。カンファレンスでは患者さんの希望・年齢・背景なども考慮されていくことも重要なことである。

 前立腺癌などのように同じ病期でも標準治療の選択枝がたくさんある場合などは、患者さんによく説明し各治療の利点・欠点を丁寧に説明してから治療方針を決定しなければならない。ただ医療に素人である患者さんしてみれば、降って湧いたように癌の宣告をされ、どんどん進められる検査の果てに治療選択枝を3つも4つも並べられては混乱するし決断もできないことが多い。私は、一通り説明した後、"私があなたの立場ならこの治療方針を選びます"、"あなたが私の父であればこの治療法を選択します"と個人的な意見を添える様にしている。

 名医とは独善的な治療をおこなう事ではなく、標準治療を丁寧におこなう事だと考えている。手術に限って言えば、確立された手術方法とは何処で誰が行っても同様な結果が得られるものを指す。ただ、その過程のなかにも、細心の注意を払う剥離や心を込めて縫合する部分や小さなコツがあったりするわけで名医とそうではない医師との差はそのような点で評価されるべきではないかと個人的には思っている。

臨床医と研究

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 この原稿を書いている12月下旬には、新聞には毎日のように全国高校ラグビー大会の勝敗が掲載されている。私もレベルが違うながら高校から大学までラグビーをしていた。私の高校は公立高校ながらスポーツが盛んであり、母校自慢になるが最近ではサッカー部が全国大会に出たりするほどであり、我がラグビー部も都内4強となり関東大会にも出ている。その反面、いわゆる進学校としては中堅であり国立医学部に進学する人は2年に一人程度であった。私自身は高校2年生の春にいろいろな本や人との出会いがあり、偶然に近い形で医学部を目指す決意をしたが高校三年生の10月までラグビーを続けた。

 当時の私を悩ませていたのは、"医学部に行くのが目標であるのに、なぜラグビーを続けているのか?"であった。"スポーツが人間形成に役に立つからである"・・などの言葉は空虚だし、高校生がそんな事を自覚する訳がない。戦前生まれの親を含む大人から見れば高校スポーツなどは、遊びの範疇にしかすぎないことも自覚していた。ただ、意義が見いだせなくてもラグビーを続ける必要を感じていたし、部活の仲間と最後までやり遂げなくては受験勉強が始まらないという根拠のない決意だけがあった。

 同じような悩みは医師になってからもあった。研究論文を書くことである。スタンフォード大学に留学していた時、米国の医師はほとんど実験などしない事を知った。医学部自体が大学院の位置づけであるから、他学部を卒業してから大学院である医学部に入学するので基礎研究などはしない。ひたすら臨床の勉強と技術修得に明け暮れるています。米国テレビドラマのERを見れば 容易に想像してもらえると思う。臨床医の研究論文は、もっぱら臨床統計か新しい治療についてである。臨床医の私としては、研究、特に動物を使う基礎研究は臨床にすぐに還元される訳ではないので意義を見いだすことが出来ませんでした。おそらく多くの研究者も同じだと思うが、"患者さんのために"と言う研究の大義や目標はあるだろうが、いったん実験を始めたら目の前の結果を追い求めてひたすら走るのみとなる。ノーベル賞を受賞した山中教授でさえも、実験をしている時は脇目も振らずただひたすらに目の前の課題を頑張っていたに違いない。研究には学術書や学会などのための金銭的な負担も多いし、論文を書いても収入が増えるわけでもない。臨床の合間や夜や休日に実験や論文を書いたりする必要がある。まして手術が上手くなる訳でもない。"論文を書く医師は手術ができない"とあげつらう風潮もあったので余計に臨床を頑張る必要があった。よく医学生や若い先生に研究の意義はなんですか?みたいな質問を受けたが、上手く説明ができないのがつらいところであった。

 最近では多くの疾患のガイドラインが整備されているので、日本全国どこでも現時点で妥当だとされる標準治療が均一におこなわれている(・・はずである)。ですから、論文を読まずしても学会のガイドラインを読み込めば見当外れな治療もすることも少ない。最近のレジデントの仕事を見ると、画一的で捌いているだけにも見える事もあるが、ガイドラインが作成されるに至った臨床・基礎論文などの背景の理解は臨床現場ではあまり必要とされない。例えるなら車の仕組みは知らなくても車を上手く運転できれば良いのだ、という考えである。ただし、昔と異なり若い医師がマスターすべき手技や手術は膨大になっているので、彼らを非難する理由もないとも感じている。昔の車は簡単な構造なので自分で修理して自分で運転できていたとも言える。最近の技術認定医や技術セミナーなどの多さは20年前とは比べられないほど充実しているし、この技術重視の傾向は患者さんにとっても好ましいことであり、医師の技量のアベレージを担保するには良い方法だという見方もできる。

 では研究論文を書くことや留学(最近の日本では留学希望者が減っている傾向にあるが)は臨床医にとってもはや優先順位の低いことなのか?と問われれば "No"と答えるだろう。ラグビーが私を成長(?)させてくれたように、研究経験が臨床事象を深く考え調べる習慣をつけてくれたし、その疾患の背景を深く理解させてくれた思いたい。結局のところは、人を動かすのは損得や意義など問わぬ情動だと思っている。三島由紀夫の"葉隠入門"には、"いつたん行動原理としてエネルギーの正当性を認めれば、エネルギーの原理に従ふほかはない。獅子は荒野のかたなにまで突つ走つていくほかはない。それのみが獅子が獅子であることを証明するのである。"とある。振り返れば、損得や意義を見いだせなくても続けた高校時代のラグビーのおかげで大学受験や米国医学試験や幾つかの研究をやり遂げられたようにも思える。やはり、"スポーツが人間形成に役に立つ"と言うのは本当なのかもしれない。

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