臨床医と研究 2013年ブログから - 2022年1月4日
この原稿を書いている12月下旬には、新聞には毎日のように全国高校ラグビー大会の勝敗が掲載されている。私もレベルが違うながら高校から大学までラグビーをしていた。私の高校は公立高校ながらスポーツが盛んであり、母校自慢になるが最近ではサッカー部が全国大会に出たりするほどであり、我がラグビー部も都内4強となり関東大会にも出ている。その反面、いわゆる進学校としては中堅であり国立医学部に進学する人は2年に一人程度であった。私自身は高校2年生の春にいろいろな本や人との出会いがあり、偶然に近い形で医学部を目指す決意をしたが高校三年生の10月までラグビーを続けた。
当時の私を悩ませていたのは、”医学部に行くのが目標であるのに、なぜラグビーを続けているのか?”であった。”スポーツが人間形成に役に立つからである”・・などの言葉は空虚だし、高校生がそんな事を自覚する訳がない。戦前生まれの親を含む大人から見れば高校スポーツなどは、遊びの範疇にしかすぎないことも自覚していた。ただ、意義が見いだせなくてもラグビーを続ける必要を感じていたし、部活の仲間と最後までやり遂げなくては受験勉強が始まらないという根拠のない決意だけがあった。
同じような悩みは医師になってからもあった。研究論文を書くことである。スタンフォード大学に留学していた時、米国の医師はほとんど実験などしない事を知った。医学部自体が大学院の位置づけであるから、他学部を卒業してから大学院である医学部に入学するので基礎研究などはしない。ひたすら臨床の勉強と技術修得に明け暮れるています。米国テレビドラマのERを見れば 容易に想像してもらえると思う。臨床医の研究論文は、もっぱら臨床統計か新しい治療についてである。臨床医の私としては、研究、特に動物を使う基礎研究は臨床にすぐに還元される訳ではないので意義を見いだすことが出来ませんでした。おそらく多くの研究者も同じだと思うが、”患者さんのために”と言う研究の大義や目標はあるだろうが、いったん実験を始めたら目の前の結果を追い求めてひたすら走るのみとなる。ノーベル賞を受賞した山中教授でさえも、実験をしている時は脇目も振らずただひたすら目の前の研究課題に没頭していたに違いない。研究には学術書や学会などのための金銭的な負担も多いし、論文を書いても収入が増えるわけでもない。臨床の合間や夜や休日に実験や論文を書いたりする必要がある。まして手術が上手くなる訳でもない。”論文を書く医師は手術ができない”とあげつらう風潮もあったので余計に臨床を頑張る必要があった。よく医学生や若い先生に研究の意義はなんですか?みたいな質問を受けたが、上手く説明ができないのがつらいところであった。
最近では多くの疾患のガイドラインが整備されているので、日本全国どこでも現時点で妥当だとされる標準治療が均一におこなわれている(・・はずである)。ですから、論文を読まずしても学会のガイドラインを読み込めば見当外れな治療もすることも少ない。最近のレジデントの仕事を見ると、画一的で捌いているだけにも見える事もあるが、ガイドラインが作成されるに至った臨床・基礎論文などの背景の理解は臨床現場ではあまり必要とされない。例えるなら車の仕組みは知らなくても車を上手く運転できれば良いのだ、という考えである。ただし、昔と異なり若い医師がマスターすべき手技や手術は膨大になっているので、彼らを非難する理由もないとも感じている。昔の車は簡単な構造なので自分で修理して自分で運転できていたとも言える。最近の技術認定医や技術セミナーなどの多さは20年前とは比べられないほど充実しているし、この技術重視の傾向は患者さんにとっても好ましいことであり、医師の技量のアベレージを担保するには良い方法だという見方もできる。
では研究論文を書くことや留学(最近の日本では留学希望者が減っている傾向にあるが)は臨床医にとってもはや優先順位の低いことなのか?と問われれば “No”と答えるだろう。ラグビーが私を成長(?)させてくれたように、研究経験が臨床事象を深く考え調べる習慣をつけてくれたし、その疾患の背景を深く理解させてくれたと思いたい。結局のところは、人を動かすのは損得や意義など問わぬ情動だと思っている。三島由紀夫の”葉隠入門”には、”いつたん行動原理としてエネルギーの正当性を認めれば、エネルギーの原理に従ふほかはない。獅子は荒野のかたなにまで突つ走つていくほかはない。それのみが獅子が獅子であることを証明するのである。”とある。振り返れば、損得や意義を見いだせなくても続けた高校時代のラグビーのおかげで大学受験や米国医学試験や幾つかの研究をやり遂げられたようにも思える。やはり、”スポーツが人間形成に役に立つ”と言うのは本当なのかもしれない。